【はじめに】
こちらのページでは、誠に勝手ながら「日本三大山城ならぬ『日本三大 “岩” 山城(仮)』を、勝手に選出させて頂き、それぞれのお城の歴史と概要を共有」させて頂こうと思います。「いきなり何言ってんだ?」、「そもそも『日本三大 “岩” 山城』なんて聞いたことないぞ!」と思われると思いますが、少々お付き合い頂ければ幸いです。
本ブログ別記事でも紹介しましたが、日本100名城や続日本100名城、現存12天守、国宝5城、現存4御殿、三名城、三大湖城、日本三大水城(海城)、三大連立式平山城、三大平山城、五大山城 / 五大山岳城と言った様な、お城のカテゴリ分けする様々な切り口が存在すると思います(山城/平山城/平城といった “地形” に基づいた切り口や、輪郭式/連格式/梯郭式といった “縄張り” 、複合式/連結式/連立式にといった天守(群)の形式基づいた切り口もありますが…)。これらの切り口は、「日本に数万あると言われるお城(城跡)の様々な特色を、様々な切り口で、お城巡りをさせて頂くトリガー(言い訳?)になる」と思ております。逆の言い方をすると「そんな切り口が、多ければ多いほど、お城巡りを実行する為のトリガー(言い訳?)も増える喜ばしい事」と言う事になるという事です…。
それが理由ではありませんが、こちらの記事では「日本三大 “岩” 山城(仮)」を、勝手ながら(個人的嗜好に基づき)選出させて頂きました。「日本三大 “岩” 山城(仮)」に選出させて頂いたのは、「岩櫃城・岩殿城・苗木城」になるのですが、これらのお城に行かれた事がある方は、「天然の岩/岩壁の迫力や、それとコラボしたお城の姿に圧倒される方も多いと思う」ので、ご賛同いただける方もいらっしゃるのでないかと思って(切望して)おります…。
こちらのページでは、そんな「日本三大山城ならぬ『日本三大 “岩” 山城(仮)』を、勝手に選出させて頂き、それぞれのお城の歴史と概要を共有」させて頂きます。
【それぞれの「日本三大 “岩” 山城(仮)」】
本来であれば、「そもそも『日本三大 “岩” 山城(仮)』とは?」と言った内容から記載するのですが、「日本三大 “岩” 山城(仮)」は、私が勝手な嗜好で選定したお城。はっきり言って基準はありません…。あえて言うのなら「個人的に “岩” 山城(そんな切り口も無い認識ですが…)として、直観的にインパクトを感じたお城」と言う感じです。今後、「何がインパクトを与えているのかを考え、後追いで基準を設ける」かもしれませんが、現時点では「直観のみ」で「岩櫃城(群馬東吾野)・岩殿城(山梨大月)・苗木城(岐阜中津川)」選定させていただきました。以下にそれぞれのお城につき、その概要を記載いたします。
■岩櫃城 (群馬東吾野)
岩櫃城は、群馬東吾野町にあったお城で、代表的な城主は、真田氏。NHKの大河ドラマ・真田丸で、真田信繁(=幸村)の父・昌幸が、信長による甲州征伐の際、山梨韮崎の新府城からの逃亡先として武田勝頼に進言したお城が岩櫃城と理解しております(結局勝頼は、以下に紹介する山梨大月の岩殿城を目指し移動を開始しますが…)。そんな岩櫃城の概要を以下に列挙いたします。
- 岩櫃城は、はっきりしない部分もあるが、南北朝時代に吾妻氏が築城したと言われており、その吾妻氏も前期吾妻氏・後期吾妻氏に分かれる様子
- その後、吾妻氏の血を引く斎藤憲行が山内上杉氏の偏諱を受け勢力基盤とした
- その斎藤氏は、甲斐武田氏の後ろ盾を得た真田氏よって攻略された
- 真田昌幸の時代には、信長の甲州征伐に際し、武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとした(武田勝頼は、岩櫃城には行かず、もう一つの武田の三堅城・岩殿城を目指すも、途中、小山田氏の裏切りに遭い400年続いたと言われる甲斐武田家は滅亡した)
- その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信之に守らせた
- 秀吉の小田原征伐の直接的な原因となった「名胡桃事件」においても、岩櫃城はその舞台になったお城の1つ
- 関ヶ原を経て真田家当主となった真田信之は、1614年に幕府を憚り岩櫃城を破却した
- 天然の要害で、上記の様に、真田氏の領国支配の在り方や甲斐武田氏の戦国時代史を考える上でも重要な城として評価され、2017年に続日本100名城に、2019年に国の史跡に指定された
岩櫃城は、岩櫃山に南北朝時代(前期)吾妻氏によって築城された天然の要害で、後期吾妻氏 ⇒ 斎藤氏 ⇒ 真田氏(甲斐武田氏の後ろ盾あり)と城主が移った。その間、真田昌幸の時代には、信長の甲州征伐に際し、武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとしたり、その後秀吉の小田原征伐の舞台の1つになったりして歴史に名を刻むも、1614年徳川幕府における大名の一人となった、真田信之は「武田の三堅城」と言われた岩櫃城の防御性の高さ踏まえ、幕府に対し忖度し、岩櫃城を廃城にしたと理解させて頂きました。
すごい見た目の岩櫃城(岩櫃山)ですが、現代では意外と簡単にアクセスできます(岩櫃城につき記載した別記事参照)。お城近くに駐車場があり、本丸までは30分程度。岩櫃山まで行こうとすると今少し努力が必要になる認識ですが、本丸までであれば、結構気軽に行ける城跡だと思うので、皆様も真田氏の歴史に思いを馳せるべく、訪れて見てはいかがでしょうか?
■岩殿城 (山梨大月)
岩殿城は、山梨県大月市にあったお城で、代表的な城主は、武田二十四将にも名を連ねた小山田氏。甲斐武田氏が滅ぶ直接的な原因に関連したお城の一つと理解しております。そんな岩殿城の概要を以下に列挙いたします。
- 岩殿城は、小山田氏のお城の一つと言われ、山梨県大月市にある標高634メートルの岩殿山に築かれた山城で、岩殿山城とも言い、山梨県指定史跡でもある
- 中央本線・大月駅からも近く(目視も出来)、「断崖絶壁の岩山・岩殿山をそのまま城郭としたお城」と言ってよい感じ
- 岩殿山には、平安期の初めの開創と伝わる天台宗寺院の円通寺があって、鎌倉時代には修験道の場として栄えたらしい
- 戦国期のこの地域は、甲斐武田氏や国衆の小山田氏が支配
- 岩殿城の築城時期は不明で、小山田氏の本拠である谷村館(都留市)の詰城説の他、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もあるらしい
- 1582年の織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐の際、武田家家臣で、武田二十四将にも名を連ねる小山田信茂は新府城(韮崎市)から武田勝頼(武田信玄の子)を岩殿山城へ迎えようとするが、途中信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は天目山(甲州市)で自害に至った(天目山の戦)
- 小山田信茂は勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、甲斐善光寺において織田信長の嫡子・信忠に処刑され、郡内小山田氏は滅亡
- 天正壬午の乱を経て甲斐国は徳川家康が領し、江戸に幕府を開くが、「緊急時には江戸城から甲府への退去を想定していた」といわれ、江戸時代にも甲州街道を見渡せる岩殿山城は要塞としての機能を保った
中央本線で、故郷の北杜市に戻る際、大月駅の手前で、進行方向右側に見える岩山が、岩殿城になり、この城跡(岩山?)が見えると「もう少しで笹子トンネルだな…」と思う場所にあるのが、岩殿城です。上記引用にもありますが、山梨県は(個人的心象ですが)笹子峠の東(大月/都留等)と西(甲府/韮崎/北杜等)の間に「県内境」の様な見えない境がある印象で、北杜市出身の私にとっては、「岩殿城が見えた際に『山梨に帰ってきた!』と言うより『もう少しで帰れるな…』といった印象を持ってしまう場所」です。
武田二十四将の一人にも数えられる小山田信茂(小山田氏)が統治したお城の一つが岩殿城になり、信茂が勝頼を裏切った事によって、小山田氏のお城とのしての歴史、そして武田方のお城としての歴史は終わる訳ですが、家康が江戸に幕府を開き、東海道や中山道と言った五街道を整備した際、最後に整備したと言われる甲州街道を「緊急時の江戸城からの脱出ルート」として想定していた事はよく言われており、その甲州街道を山梨(甲斐)側で監視する砦としては、岩殿城は最適な拠点であると思た次第です。
詳細は、岩殿城を記載した別記事をご参照頂きたいのですが、「稚児落とし」を含む浅利ルートは、それなりの難易度だと思いますが、南側の強瀬登山口からふれあいの館を経由して本丸まで行き、そのまま戻ってくるルート(2024年1月現在:通行止め区間がありこのルートいけません…)であれば、少しの努力で登城できると思いますので、皆様もお出かけしてみてはいかがでしょうか?
■苗木城 (岐阜中津川)
苗木城は、岐阜県中津川市にあったお城で、代表的な城主は、遠山氏。甲斐武田氏(武田信玄)と尾張織田氏(織田信長)が領地争いを行った最前線にあるお城の一つと理解しております。そんな苗木城の概要を以下に列挙いたします。
- 苗木城の別名は霞ケ城とも言い、国の史跡で、続日本100名城にも登録されている
- 遺構としては、本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っており、天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴
- 「赤壁城」の別名もあり、その理由は、「木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまう為、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていた」と言う伝説が残っているらしい
- 苗木城の始まりは、鎌倉時代初期に岩村城(日本三大山城の一つ)を本拠地として恵那郡を統治した地頭、遠山氏の初代遠山景朝の長男遠山景村が、木曽川北部の所領確立のため、木曽川南岸の左岸の西山戸から北岸の那木津戸に進出した事に始まるらしい
- 戦国期は、別記事で紹介した近くの「日本三大山城の一つ・岩村城」同様、甲斐武田家(武田信玄)と尾張織田家(織田信長)の領地争いの最前線であった為、複雑な歴史を持っており、統治者が頻繁に変わったようだが、その状況下、一旦苗木城を退き、浜松の徳川家康の所に身を寄せていた(苗木)遠山氏が、関ヶ原で東軍につき、苗木城も奪還したことにより、苗木藩が成立し、明治維新まで(苗木)遠山氏の居城となった
- この「苗木藩主としてこの地を明治維新まで治めた『苗木遠山氏』」のバクグラウンドは、名門とも言える遠山家の出で、本家筋の岩村遠山氏(苗木城の築城をした家で、三大山城の一つ・岩村城を築城したのも岩村遠山氏と言われているが滅亡)に加え、飯羽間遠山氏(滅亡)・安木遠山氏(滅亡)・明照遠山氏(滅亡)・明知遠山氏(旗本)・串原遠山氏(明智遠山家の家老)といくつもの遠山家が出来た内の一つらしい
巨岩と石垣を組み合わせ、自然の地形と共存する形で残る城郭は、お城好きならずとも中々魅力的な城跡だと思っております。幼少の頃一度だけ、親に連れられ参らせて頂いた事がありますが、当時はそのすごさを十分に理解できず、お城その物に関しては「変わったお城だなー」位の印象しか無かった一方、強く記憶の中に残っているのは、山梨(北杜市)からの道のりで通った中央道の長い長い恵那山トンネルと苗木城からの眺望。いい年になって思う事は、「確かに眺望もすごかった記憶だけど、『自然石の巨岩と石垣のコラボ』と『眺望』を改めてセットで楽しみ、『甲斐武田家(武田信玄)と尾張織田家(織田信長)が領地争いを繰り広げたこの地で、遠山氏の歩んできた苦難の道のり』とともに、その歴史に思いを馳せてみたい」と思ってしまった次第です。
上記写真の通りですが、岩櫃城・岩殿城と違って、苗木城は、岩山の迫力と言うよりも、『自然石の巨岩と石垣のコラボ』を楽しめるお城だと思って折ります。別記事で苗木城の散策ルートも記載した大人散策情報を提供しておりますので、併せてご参照頂き、皆様も足を運んでみては、いかがでしょうか?
【最後に】
以上が、「日本三大山城ならぬ『日本三大 “岩” 山城(仮)』を、勝手に選出させて頂き、それぞれのお城の歴史と概要を共有」させて頂いた内容になります。
『日本三大 “岩” 山城(仮):岩櫃城(群馬東吾野)・岩殿城(山梨大月)・苗木城(岐阜中津川)』、ご賛同いただけますでしょうか? そもそも「 “岩” 山城」といったくくりが無い認識なので、「日本三大 “岩” 山城」を選定する事自体がナンセンスなのは承知の上ですが、岩櫃城・岩殿城・苗木城が、「中々魅力的なお城」で、「山城ではなく『”岩” 山城』といった方が適切な表現」といったあたりは、多くの方の賛同を頂けるのでないかと思う(切望する)次第です。また、正直本記事を記載するに当たり「武田の三堅城」と言われた「岩櫃城(群馬東吾野)・岩殿城(山梨大月)・久能山城(静岡)」=「日本三大 “岩” 山城(仮)」で良いかとも思いましたが、久能山城は、現在「城跡と言うより神社(久能山東照宮)のイメージが強い事」と「どうせ勝手に選ぶらなら個人的に好きな城跡にしよう!」と思い選定した次第でもあります(勿論、久能山城址も海岸線付近から見上げる岩山(=”岩” 山城)は、圧巻なのですが…)。
今回は、「日本三大 “岩” 山城(仮)」という勝手な切り口で、お城を分類させて頂きましたが、今後も数万あると言われるお城巡りを遂行しつつ、また違った面白い切り口でお城を分類してみたいとも思いました。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。