【はじめに】
こちらのページでは、東京の文京区にある、後楽園駅・水道橋駅・飯田橋駅からほど近い、「小石川後楽園」をご紹介致します。
私達夫婦は、庭園好きと言う事もあり、東京都内では、別記事でも紹介させて頂きました、「旧古河庭園」や「椿山荘の庭園」、「旧芝離宮恩賜庭園」、「浜離宮恩賜庭園」、「六義園」、「清澄庭園」等を巡る大人散策をして楽しむ事がよくあります。
また東京以外では、高松の松が有名な「栗林公園」、熊本の管理が行き届いた芝の富士が美しい「水前寺成就園」、名古屋の「徳川園」、岩手平泉では平安の庭園をイメージで見る「毛越寺庭園」、お城に関連では、彦根城に隣接する「玄宮楽々園」、名古屋城「二の丸庭園」、京都二条城「二の丸庭園」、金沢城隣接の「兼六園」等、それ以外の庭園も含め、これまでそれなりの数参らせて頂きたと思っております。
ただ正直、庭園の事に詳しい訳でもない素人ですが、美しく手入れされた庭園の中は、心が落ち着く空間で、美術館の中にいるような心持になれる大人の空間だと思っています(芸術系の素養も知識もあまりないので、美術館に行っても、ただ絵画等の芸術作品を鑑賞し、「すごいなー」とか「綺麗だなー」とか思っているだけですが…)。
言い訳がましい言い方ですが、私達夫婦の様な素人でも、技術的な知識や細部の情報を持ち合わせていなくても、「良いものは良い、好きなものは好き」と感じる事は出来ると思い、それは見る側・感じる側の自由だと思っております(“〇〇式庭園” 等のカテゴリ分けに関しては、別記事で紹介しておりますが…)。クラッシクやピアノのコンサートも同様で、「自身で演奏してください」と言われても何も出来ませんが、プロが演奏する音楽を聴いて、心を豊かにできる事は「聞く側の特権」で、同様の事が庭園にも言えると思った次第です。
そんな言い訳を前置きとして恐縮ですが、こちらのページでは、大名庭園の先駆け(もしくはお手本)と言うべき、「小石川後楽園」紹介させて頂きます(ちなみに、水戸徳川家の庭園として有名な「偕楽園」に関しても別記事で紹介しております)。
【「小石川後楽園」の概要】
上記、「技術的な知識や細部の情報が無くても楽しめば良い」と言った内容を記載しましたが、概要くらいは、大人散策にあたって抑えさせて頂こうと思います。「小石川後楽園」に関し、Wikipediaを調べますと、以下の様にあります。
小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)は、東京都文京区後楽一丁目にある都立庭園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)である。国の特別史跡及び特別名勝に指定されている (略)
小石川後楽園の様子 家光と頼房と左兵衛
後楽園の作庭と同時期、第3代将軍徳川家光は、江戸城に小堀遠江守政一(小堀遠州)が造った庭園と新山里茶屋を完成させていた。寛永6年(1629年)6月7日に竣工し、頼房も江戸城に招かれ家光が造った庭園を観賞している。この事は、頼房の小石川藩邸の庭造りに大いに参考になったと思われる (略)
後楽園の造成は、徳大寺左兵衛という高屋出身の人物が、山水の景色を造り、中島に巨石を立てたとされている (略) 後楽園は、頼房によって造成されたといわれているが、実際は頼房と左兵衛以下で働く庭師の審美眼によって完成されたといえる。左兵衛は、家光や頼房の意匠を汲み取り、現場で細部の指揮を取り、意匠を具現化した (略)Wikipediaより:徳川家光像、徳川頼房の肖像、蓬莱島と徳大寺石 完成後の水戸藩庭園
(略) 家光は、水戸藩の庭園の造成に関与しただけでなく、庭園の完成後は鷹狩の際に、何度も小石川藩邸を訪れ、庭園で舟遊びを楽しんだ。『水戸紀年』によれば、家光は庭園完成後、寛永11年(1634年)3月28日、同13年(1636年)9月、同14年(1637年)11月、同15年(1638年)、正保元年(1644年)12月8日、寛文5年(1665年)8月21日の計6度、鷹狩の折に小石川藩邸を訪れている。小石川藩邸の庭園は、三大将軍家光の意匠と足跡が残る庭園である (略)Wikipediaより:徳川光圀(明治時代以降に書かれた肖像画。白黒であることから印刷画または肖像画を写した写真の可能性あり)、『江戸切り絵図』天保元年(1830年) 光圀による意匠
頼房は、後楽園の起工から33年後の寛文元年(1661年)7月29日に死去し、光圀が同年8月19日に常陸水戸藩第2代藩主を相続した (略) 光圀は、頼房から受け継いだ後楽園を見て、「弁財天」、「大堰川」、「辛崎」など、和歌に見る名所が造られていることから、それらに「文昌堂」、「得仁堂」の建物を加えた。文昌堂は、幼いころ家光から賜った学問の神である文昌星の像を、得仁堂は学問を志すきっかけとなった主人公の像を安置する建物である。また、光圀は、中国の名所である「西湖」、「円月橋」を庭園に造らせた。「後楽園」の名も舜水によって付けられた、「士に当たりては天下の憂い先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむなり」という、君主の政治上の訓戒を象徴している。後楽園の名は、光圀の儒教に基づく政治思想の啓示ともいえる (略)西湖堤:小石川後楽園・旧芝離宮恩賜庭園・徳川園 小石川後楽園の円月橋と栗林公園の偃月橋 光圀時代の庭園
光圀が相続した寛文2年(1661年)から元禄3年(1690年)隠居までの30年間、庭園は大いに整備された。光圀は儒教思想を庭園に吹き込み、家臣の教養や親睦を高めるための場とした。庭園は個人の所有物ではなく、あらゆる階級の人々が招かれ、あらゆる会合の場として使用された。 庭園が政治外交の場として使用されたことは特筆すべきことである。『文苑雑慕』によると光圀時代は、舜水の宴会だけでなく歌詠みの会が催され、歌会など月明かりや篝火を頼りに行われた。庭園は藩士との宴会に使われ、家臣たちと流れがある池に舟でこぎ出したり、藩の調和を保つために使われていた。そうした光圀が造った庭園は、幕末まで継承された (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/小石川後楽園 Wikipediaより:1863年(文久3年)の水戸藩小石川邸と後楽園(国立国会図書館蔵『御上京道記』)
『「小石川後楽園」は、徳川御三家の1つ、水戸藩の中屋敷(後に上屋敷)に作られた庭園で、水戸藩初代藩主の頼房によってつくられたと言われるが、時の将軍家光も関与し、現場では、徳大寺左兵衛が腕を振るったと言う事の様で、次の代の光圀の代で完成した庭園』と理解する事が出来ました。広さは、約2.1万坪強ほどとの事で、近くの六義園:2.7万坪と比べ、ほんの少し狭いようですが、表情豊かで光圀の中国趣味が反映された庭園は、「外交の場」としての役割も担っていたようで、当時の政治の表舞台を江戸城とするのであれば、「小石川後楽園は、(そんな役職は無かった認識ですが)副将軍として、表の政治を支える外交の場としての役割」も担ってきた庭園ではなかったのかと、勝手ながら思ってしまった次第です(水戸徳川家の庭園として有名な「偕楽園」に関しても別記事で紹介しております)。
そんな「小石川後楽園」ですが、私の個人的なイメージは、「池泉の広がる日本庭園の中に、中国的色合いをちりばめた、(書き方難しいですが)和中折衷的大名庭園の先駆け(手本)となった庭園」と言うのが、個人的な印象です。以下に記載する、西湖堤のある庭園は、他の大名庭園でも見られるもので、当時人々から評価された証だとも思っており、「士に当たりては天下の憂い先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむなり」から後楽園と名付けた、光圀の人柄と先進性を実感できる庭園が、「小石川後楽園」だと、個人的ではありますが、思っております。
【「小石川後楽園」の見所】
個人的な印象も含め「小石川後楽園」の概要を記載いたしましたが、以下に「小石川後楽園」の個人的に思う、見所も下記に記載させて頂こうと思います。西門からスタートする形を取りますので、最下部のGoogle マイプレイスで作成した地図と共にご参照頂ければ幸いです。
・大池泉 / 蓬莱島
西門から入り、東に歩を進めますと、すぐに広場の様な場所に出ます。ここからの蓬莱島、並びにその前方に見える徳大寺石を(個人的ですが)最も良い角度で見れるスポットだと思い、まずは大名庭園の真骨頂をご覧頂ければと思います。小石川後楽園が始まったポイントだと思いますので…。
・延段 / 木曽川・山 / 寝覚滝
蓬莱島・徳大寺石を左手(北側)に見つつ、歩を進めると、おしゃれな園路と緑が気持ち良い散策路が続き、水の流れも見えてきます。「延段(中国風石畳) / 木曽川・山 / 寝覚滝(木曽路の名所:寝覚めの床より)」が楽しめるエリアで、山中の散策を感じるポイントです。
・唐門 / 内庭
唐門は、かつての「後楽園」への正式な入口との事で、 戦災で焼失していたが、2020年に復元されたとの事です。また、内庭の方は、「内庭」ですので、水戸藩のプライベート空間と言う事になる認識です。
・鳴門 / 竹生島
「鳴門」が意味する所は「池が、海峡的に狭くなっている場所」と言う意味なのか、「それによって水が勢いよく流れている場所」なのか、「『鳴門』という地名」なのか、正直不明ですが、大池泉から少し切り離された様な場所の「鳴門」とその西側の池の中に、「竹生島」を模した岩を見る事が出来ます。こちらの大池泉は、琵琶湖を模したとの事なので「竹生島」はイメージ出来ましたが、「鳴門」は今後の宿題とさせて頂きます。
・瘞鷂碑 / 異形灯籠 / 舟着場
竹生島を見つつ、北に歩を進めると、瘞鷂碑(鷹のお墓?) / 異形灯籠 / 舟着場とそれぞれスポットが出てきます。「異形」なので、ちょっと変わった形をした燈籠と言う事だと思いますが、すぐ横に「船着場」があるので、『「灯台」の様なイメージで作ったのかな?』と思ってしまいました。昔は船を浮かべて舟遊びもしたようなので、庭園の中にある「まじめさ」と「遊び心」が合いまった息遣いが聞こえてくる様に思えた次第です。
・赤門 / 九八屋 / 田んぼ / 不老水 / 神田上水跡
船着き場から、ジグザグに北上すると、「赤門 / 九八屋 / 田んぼ / 不老水 / 神田上水跡」と言ったスポットが見えてきます。赤門は、水戸藩江戸の上屋敷における「中仕切門」との事で中々立派な門ですが、九八屋は、以下現地の説明看板の写真の通り、中々しゃれの効いたネーミングの建物です(「おさけをたしなむのに、昼は9分、夜は8分にすべき」=「ほどほどに…」と言う意味との事の様ですが、「昼から9分飲んで、夜も8分飲んでいれば、飲みすぎ」だと個人的には思った次第です…、自身はその部類に入りますが…)。また、その更に北には、「光圀が自身の跡継ぎの夫人に農民の苦労を教えるために作った田んぼ」があり、上記同様に、「まじめさ」と「遊び心」が合いまったエリアが続きます。そしてその先は、水にかかわるスポットの「 不老水 / 神田上水跡」が続いております。
・梅林 / 藤田東湖の記念碑
神田上水跡を越え、水戸藩と言えば、真っ先に連想する「水戸にある『偕楽園』の代名詞・梅園」(こちらの梅園は少し控えめのサイズですが…)を越えると、小石川後楽園の北東の端に、藤田東湖の碑があります。そもそも藤田東湖に関しては、Wikipediaには、以下の様にあります。
藤田 東湖(ふじた とうこ)は、日本の武士(水戸藩士)、学者(水戸学藤田派)。藤田幽谷の息子。東湖神社の祭神。
概観
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。
会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた (略)藤田東湖の記念碑 安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死した。藩邸跡である東京都文京区後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤田東湖
今でも「『藤田東湖の碑』は、鬼門・北東面にあり、小石川後楽園を守ってくれている」のでないかと思ってしまいました。
・小町塚 / 八卦堂跡 / 愛宕坂
東湖記念碑から西に歩を進めると古小高い丘の様な地形になります。センスの良い石畳を登って行くと、光圀が名付けた小町塚、そしてその先に八卦堂跡が出てきます。光圀が将軍家光から拝領した「文昌星」像を安置したと伝わるのが、八卦堂との事の様です。またその八卦堂跡の南側には、「愛宕坂」があります。47度の勾配との事で、かなりの急勾配の為か、歩けない様になっていましたが、上下両面からその急勾配は実感できます。
・円月橋
円月橋に関しては、Wikipediaに、以下の様にあります。
円月橋(えんげつきょう)、ムーンブリッジ(Moon bridge)は、中国庭園や日本庭園で見られる大きく湾曲したアーチ状の歩行橋である。円月橋は中国で考案され、その後日本へと伝えられた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/円月橋
光圀の中国趣味が見える代表例の1つが、この円月橋と認識しており、丸く美しいフォルムは、小石川後楽園の顔の1つと言って良いと思います。
・白糸の滝 / 丸屋
円月橋から、池の方に向かって歩を進めると、白糸の滝と水の流れをまじかに感じれるポイントと、一服できる丸屋(現在風に言えば東屋的な感じでしょうが)があります。丸屋の屋根は茅葺で、懐かしさを感じさせてくれるものです。
・一つ松 / 蓮池 / 小廬山(麓より)
丸屋から池沿いに南に進むと、左手(東側)に、立派な松、「一つ松」があり、右手(西側)には、蓮池(写真は11月だったので枯れてしまってますが…)があり、その目線の先には、小廬山があります。綺麗に手入れされた笹(ササ)は、美しい稜線を演出しており、その先の橋を渡って、西に回り込みつつ全体図を拝見すると富士山を写したと言われる所以を実感できると思います。また、行き届いた笹の管理を見ていると、熊本の水前寺成就園の芝の富士を思い出してしまいました…。
・大堰川 / 屏風岩
小廬山を右手に見つつ、そのまま西に歩を進めると、右手(北側)に京都の嵐山をイメージしたと伝わる大堰川とその傍らに屏風岩を見る事が出来ます。流れの上流部には、朱色の橋・通天橋も見え、京都らしい景色を感じさせてくれます。
・西湖堤
旧芝離宮恩賜庭園でも、名古屋の徳川園でも「西湖堤」を見る事が出来ますが、こちらの「西湖堤」は、大名庭園における元祖・西湖堤と言って良いのでないかと思います。西湖堤は、「北宋の詩人・蘇東坡の詩によって有名になった様で、「景勝地である中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を模して庭園に取り入れた」と言われており、大名庭園で流行した橋」との事です。その先駆け、最初にこの西湖堤を日本庭園に取り入れたのが、光圀であり、こちらの小石川後楽園と言う事の様です。
・清水観音堂跡 / 通天橋 / 音羽の滝
西湖堤/大堰川を見つつ、今後は北側に進路を取って、大堰川の上流方面に向かいます。少し斜面を登ると清水観音堂跡(京都の清水寺を模した観音堂があったらしい)があり、そこからは、木々の中を流れる大堰川を眼下に見る事が出来ます。そしてその目の前には、京都東福寺の通天橋を模したと言われる朱色の通天橋。木々の中に映える朱色は、センスの良さを感じるものです。橋の下(音羽の滝跡)からの景色も中々の物ですので、水面近くからもご鑑賞ください。
・得仁堂 / 小廬山
得仁堂 は、「若かりし頃の光圀が、史記「伯夷 列伝」に感銘を受け、 伯夷・叔斉の木像を安置した堂」との事です。現地説明看板には、「光圀が建てた園内最古の建物」とありましたので、300年位前の建物という事を理解しました。今も内部に安置されているのか否かわかりませんが、伯夷・叔斉の木像も現存しているとの事で、小石川後楽園の歴史と光圀と言う方の人柄に思いを馳せたいスポットだと思います。また、そのすぐ南には、上記麓から鑑賞した小廬山の上にに出る事が出来ます。
・涵徳亭(びいどろ茶寮)
以上で、小石川後楽園のスポットをほぼ網羅できたと思うので、大人散策は以上になり、西側の出入り口から失礼する形になりますが、その出入り口付近から、涵徳亭(びいどろ茶寮)に行けます。甘未やドリンク、ランチも提供くださるようですので、大人散策の〆で、一服してみても良いのでないかと思います。
【最後に】
以上が、(個人の勝手な印象かもしれませんが)大名庭園の元祖とも言える「小石川後楽園」の大人散策情報になります。
水戸藩初代藩主・頼房が、時の将軍・家光の関与を受けつつ、左兵衛がそれらの意思を汲みつつ作庭し、光圀が完成させた庭園、「小石川後楽園」。円月橋・西湖堤・延段等の中国趣味の香りが漂う園内は、広々とした大池泉や新緑・紅葉どちらも美しい庭園で、大人散策にはピッタリの空間です。
また、大名庭園の先駆け、もしくはお手本と言って良いと思われる「小石川後楽園」は、徳川御三家・水戸藩の外交の場としても活用される事で、以後の大名庭園に大きな影響を与えた庭園で、その文化性・歴史等の様々な側面においても、魅力あふれる庭園だと思っております。 純粋な庭園としての美しさ、そしてそこに隠れる文化性の高さと、この庭園が歩んできた歴史を感じるべく、「小石川後楽園」に脚を運ばれてみてはいかがでしょうか? (ちなみに、水戸徳川家の庭園として有名な「偕楽園」に関しても別記事で紹介しております)
尚本ブログでは、東京旧古河庭園、東京椿山荘、神戸相楽園、京都無鄰菴、高松栗林公園、熊本水前寺成就園、山梨恵林寺庭園、甲府常磐ホテルの庭園、平泉毛越寺庭園、名古屋徳川園、二条城二の丸庭園、川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園、熱海の起雲閣、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、清澄庭園、浜離宮、六義園、新宿御苑、日本三名園:金沢兼六園・岡山後楽園・偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。