別格官幣社

【はじめに】

こちらのページでは、日本の神社における社格の一つであった「別格官幣社」につき、その概要と歴史的背景を抑えた上で考察を加えさせて頂こうと思います。

そもそもですが皆様は、「別格官幣社」なるワードを耳にした事は、ございますでしょうか? その前に、神社(仏閣も含め)めぐり等は、されますでしょうか? 私達夫婦は、寺社巡りが好きで、多くの神社仏閣にお邪魔させて頂き、大人散策を楽しんでおります。本ブログ別記事で紹介させて頂きました、「狛犬ではない、狛〇シリーズ」と言った観点や、居住地川越での「七福神巡り(基本お寺ですが…)」、読み方から野球に関連しバット絵馬等がある「東松山の箭弓神社」、「通りゃんせ♪」発祥の地と言われる「川越の三芳野神社」、季節によりますが江戸風鈴の飾りが見事な「川越氷川神社」、日本一の参道の長さを誇ると言われる「氷川神社の総本社・大宮氷川神社」等、様々な特徴のある神社等にお参りさせて頂き、大人散策を楽しんでいます(それぞれ詳細は別記事参照)。またお城巡りも好きで、居住地である川越の「川越城本丸御殿」、近い所で「江戸城」や「国指定史跡の比企城館跡群」、少しだけ脚を延ばして「上田城」や「松代城」、「小諸城」、更に脚を延ばして「仙台城」や「名古屋城」、「犬山城」、「彦根城」といった感じで、多くのお城にもお邪魔させて頂きました。

そんな中、先日別記事で紹介させて頂きました武田三堅城の一つ・久能山城」を、今後の訪問に向け調べている際、現在は「久能山東照宮」となっているその神社が「別格官幣社」である事を知った次第です。神社の社格として、時代ごとにいくつかの制度があり、詳細は別記事をご参照頂きたいのですが、「天津社」と「国津社」を分けた「上古社格制度』に始まり、『「官幣大社」や「国弊小社」といった区分が始まった「古代社格制度』、『「一宮」・「総社」・「二十二社」といった区分の生まれた「中世社格制度』、『明治期に改めて神社の再編が行われた「近代社格制度』と流れ、現在では『「社格」とは違う認識ですが「別表神社』言う事 “くくり” が存在しています。今回取り上げる「別格官幣社」と言う社格は「近世社格制度」の中で生まれた区分になる様ですが、その「別格官幣社」には、上記「久能山東照宮」を含めて28社あったと言われており、「東照宮の総本社・日光東照宮」もですが「楠木正成を祭る湊川神社」や「豊臣秀吉を祭る豊國神社」等も含まれる様子。「これはいったいなんだ? / どんなくくり方なんだ?」、「どんな神社が他にあるんだ?」「なぜこの新しい考え方を入れたんだ?」といったいくつもの疑問がこみあげ、調べてみた所『「別格官幣社」って日本が生まれ変わった痕跡?』と思った次第です。

こちらのページでは、そんな「別格官幣社」なる近世社格制度における一つのくくりにつき、その概要や歴史的背景を抑えた上で、勝手な考察(妄想?)を加えさせて頂こうと思います

【別格官幣社の概要】

早速、「別格官幣社の概要」から抑えさせて頂きます。Wikipediaの力を借りますと、「近世社格制度」の項目内に以下の様にあります。

近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)とは、明治維新以降、『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化した制度である。第二次世界大戦後に廃止されたが、「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。(略)

官社の社格の順
官国幣社(官社)については、官幣社は国幣社よりも格が上とされ、それぞれ大・中・小の順に格が下がる。
『神道辞典』などによると、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社 となるが、官幣中社と国幣大社はどちらが上かなどの明確な規定はない。

別格官幣社
後に、国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社のために別格官幣社が創設され、明治5年(1872年)に楠木正成を主祭神とする湊川神社が初の別格官幣社に列格している。別格官幣社は官幣小社と待遇は同じであるが、国幣小社よりも上位とされた規定はない (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/近代社格制度

国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社」と言われても正直あまりピンときませんが、つまり、

天皇を中心とした国家再構築の明治維新」のさなか、日本の長い歴史の中で国に貢献した人物(神・神社)だが、既定の神道の “くくり” では収まりきらないので、新たな神社の社格として登場した “くくり” が「別格官幣社」で、戦後に廃止された

と理解した次第です。その別格官幣社・28社をいくつかの切り口でマトリックスにまとめた一覧と、各社の位置関係を地図に落としたMapを以下に共有します。

いかがでしょうか? 何か気になりませんか?

【別格官幣社の一覧から感じる事 ⇒ 各神社と祭神の詳細】

上記一覧のマトリックスは、Wikipedia の「別格官幣社一覧」を拝見した際、「ん?」と思ったので、Wikipedia を中心に様々サーチさせて頂き、まとめさせて頂いたものになります。言い換えますと、「長年続いた武家政権を天皇中心の国家に変革する為の明治政府の意図が感じらえる顔ぶれになっていると言う事です…。

今度は皆様が「ん?」、「何言ってんだ?」って感じだと思いますので、今少し記載しますと、

平清盛・源頼朝に始まる、長年続いた武家政権(一時期、天皇による統治の試みもあったようですが…)から、徳川幕府の終焉と共に天皇中心の国家へ(江戸から明治へ)と変遷する時代背景のもと、神話の時代から続く天皇家を中心とする神道を政治に活用しようとしたが(すなわち「政教一致」)、700年近い武家政権のもとですでに時代は流れれおり、これまでの神道の序列(社格)だけでは収まりきらない(=矛盾が生じる)状況になっていたので、そこからはみ出すが、統治の観点から無視できないKeyとなる歴史上の神格化された人物を祭る神社については「別格官幣社」と言う新しい “くくり” を作って、日本国民の意思統一を神道の面から図ろうとしたのでないか?

と思ったと言う事です。具体的に、それぞれの別格官幣社とその祭神を見ていくと、以下の分類(重なる部分もありますが…)になると思た次第です。

  • 天皇権力の防衛に貢献」した家臣を祭神にした神社
  • 「『建武の新政』の立役者」を祭神にした神社
  • 天下人」を祭神にした神社
  • 尊王/朝廷支援の実績がある有力武将・藩主を祭神にし、 地域的バランスとイメージの良い」神社
  • 明治維新の立役者」を祭神にした神社

以下に、それぞれの詳細を見ていくように致します。

■天皇権力の防衛 

日本の長い歴史の中で、武家統治の前は、天皇を中心とする朝廷が政治を行っていた事は周知の事実だと思いますが、その合間には、天皇の権力を脅かす事象があった事も事実だと思います。同時に、それを死守すべく働いた歴史上の人物を祭る神社があり、具体的には以下の事象があったと認識しています。

  • 乙巳の変 ⇒ 藤原鎌足 (談山神社)
    • 西暦でいうと600年代の中頃に起こった事件で、大化の改新と併せて認識されている方も多いと思います。「朝廷の虫(64)をこ(5)ろして大化の改新」なんて語呂合わせで覚えた記憶もありますが、「聖徳太子の次に朝廷で実験を握った有力豪族の蘇我氏は、専横が目につき、天皇による統治が出来ない状況になってしまい、聖徳太子の子供の山背大兄王をも、自害に追い込んでしまう様な状況であった為、天皇中心の統治に戻すべく、中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原(中臣)鎌足らが、蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変」と理解しております。結果、天皇中心の統治が固まっていったと言われているので、明治政府としては、藤原(中臣)鎌足を神格化する事は、持って来いのエピソードだと思ったに違い無いと思った次第です。

  • 宇佐八幡宮神託事件 ⇒ 和気清麻呂 (護王神社)
    • 簡単に記載しますと、道鏡事件とも呼ばれ、西暦で言うと700年代の中盤、孝謙天皇/上皇(再度天皇に復帰して称徳天皇)の病を治したことから、その信頼を得て出世した道鏡が、「神託を受けた」と天皇の座を得ようとした事件と認識しております。結果は、和気清麻呂が確認の為に宇佐八幡に派遣され「そんな神託無い」と言う報告で、且つその後、称徳天皇の崩御により、後ろ盾を失った道鏡は、次の光仁天皇により失脚されられた事件と言われいる様ですが、清麻呂が報告した神託が本当の神託であったか否かは不明とも言われている様です。いずれにしても(事実はどうあれ)、「皇位を守った和気清麻呂はえらい!」と、明治政府は看過したかったと推察してしまいます。

  • 平将門の乱 ⇒ 藤原秀郷 (唐澤山神社)
    • 本ブログの別記事「日本三大怨霊」の部分でも触れましたが「親王」(「新しい天皇」の意味で、「天照大神とは異なる世界を創る大きな役割」と言う意味があるらしい)を名乗り、反乱を起こした平将門を追討したのが、藤原秀郷と理解しております。明治政府のメッセージを考えるのであれれば「天皇に代わる存在になろうとした将門を討った秀郷は神様!」といった所でしょうか?

いづれのケースも、「天皇の地位を守るべく功をなした人」と言う事が言えると思い、この人物たちを神格化し、天皇中心の国を再構築するための広告塔としようとした事は、間違ってはいない解釈だと思った次第です。

■「建武の新政」の立役者 

ご承知の通りだと思いますが、建武の新政とは、1333年に元弘の乱で鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇を中心に、天皇が自ら政治を行った政権の事(2年半程で崩壊してしまった様ですが…)」と理解しております。言い換えると、江戸期以前、長い武家政権の歴史の中、2年半ほどの期間であったが、武家から天皇が統治権を取り戻した期間があったその時の政権で、明治政府もその歴史を活用しようとした」と言う事だと推察しました(「2年半で崩壊」ってのが結構引っ掛かりますが…)。その時の立役者が以下と言う事の様です。

  • 楠木正成 (湊川神社/四条畷神社)
  • 新田義貞 (藤島神社)
  • 菊池武時等の一族 (菊池神社)
  • 名和長年 (名和神社)
  • 北畠顕家等の一族 (阿部野神社/霊山神社/北畠神社)
  • 結城宗宏 (結城神社)
  • 花山院師賢 (小御門神社)

『建武の新政』を助けた家臣を別格の神として認める事で、同じ様な時代環境にある明治政府の正当性を示そうとした」と理解した次第です。以下に、各人物の簡単な情報をWikipedia 抜粋いたしますので、ご参考までに…。

■楠木正成 (湊川神社/四条畷神社)

(略) 元弘の乱(1331年 – 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた (略) 湊川神社の主祭神となった  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成

■新田義貞 (藤島神社)

(略) 上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 – 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/新田義貞

■菊池武時等の一族 (菊池神社)

(略) 元寇の後に鎮西探題が設置され、北条氏による支配が強化されており、御家人達の不満は募っていた (略) 武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に討たれた (略) 
その性急な挙兵は少弐氏や大友氏の支持を得られず、自滅する結果となるが、武時の探題襲撃計画は九州における討幕運動の契機となり、この2ヶ月後の5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、その3日後に少弐貞経、大友貞宗ら九州の武士達は倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼすことになる (略) 
論功行賞の場で、千早城の戦い等で活躍した武将楠木正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという (略) 武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/菊池武時

■名和長年 (名和神社)

(略) 元弘元年(1331年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、同3年(正慶2年、1333年)に島を脱出すると、これを船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった(船上山の戦い)。これに勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じられた。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めている (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/名和長年

■北畠顕家等の一族 (阿部野神社/霊山神社/北畠神社)

(略) 後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議に任じられて公卿に登り、建武の新政では、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府) (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/北畠顕家

(略) 後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得た(但し、この3人は元々後宇多上皇に仕えていたのであり、後醍醐のために集っていたわけではない)。そして後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当を兼ね、正中2年(1325年)1月には内教坊別当をも兼ねて、ついに父祖を超えて源氏長者となった (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/北畠親房

■結城宗宏 (結城神社)

(略) 元弘3年(正慶2年、1333年)に後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした。その功績(足利氏、新田氏に次ぐ第3の功績とされることもある)により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。また、次男・親光は、楠木正成らに並ぶ後醍醐天皇の側近(三木一草)として取り立てられた (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/結城宗広

■花山院師賢 (小御門神社)

(略) 花山院 師賢(かさんのいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣・花山院師信の二男。官位は正二位・大納言、贈太政大臣。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総国で没した (略) 
母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫・左衛門督・弾正尹などを歴任した。正中3年(1326年)2月権大納言、嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。(略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/花山院師賢

■天下人 

天下人と言えば、織田信長(建勲神社)・豊臣秀吉(豊國神社)・徳川家康(日光東照宮/久能山東照宮)の三英傑と言ってよいと思います。天皇政権からすれば、敵対する相手かもしれませんが、よく考えてみるとこの3名を神格化し、神道の枠組みの中で認める事は、『天皇の支配下に入れる』」事とも考えられ、(元々序列は変わっていないのですが、改めて)「かつての天下人ですら『天皇の家臣である!』」と明治政府の隠れたメッセージが見え隠れするのは、私だけではないと思います。また、長年続いた武家政権ですので、Keyとなるこの3名を無視する事は『「日本の歴史そのもの」と「民衆のこれまでの拠り所」を無視する事にもなる』とも思われるので、「明治政府は賢明な判断をした」と思った次第でもあります。

■尊王/朝廷支援の実績がある有力武将・藩主 / 地域バランスとイメージ

長く続いた武家政権ですが、その期間権限はなくとも、権威は天皇にあり続け、(一部を除いて)武家はそれを敬い続けていた事も事実だと思います。その中でも有名なのは、水戸徳川家の尊王思想(水戸偕楽園小石川後楽園(庭園)は別記事で記載中)。これがあったからこそ、江戸幕府倒幕の基礎が出来ていった(できてしまった)事は間違いないと思っています。また、江戸期の藩の大きさと地域性も踏まえて考えた際、以下に記載する明治維新の立役者とは別に、長い日本の歴史で、地域を収めた英雄(≒イメージの良い有力武将)がいた事も事実で、「新生日本を地域の隔たり無く収める」にあたって、顧慮された事も推察できるのでないかと思って折ります。

  • 徳川光圀/徳川斉昭 (常磐神社)
    • 水戸藩に伝わる尊王思想の原点と、それを受け継ぎ幕末に倒幕の原動力になった(なってしまった?)象徴の人物

  • 毛利元就 (豊栄神社)
    • 江戸期には厳しい状況であった長州藩だが、元々は中国地方の大大名で、倒幕の原動力ともなった毛利家の礎を築いた人物ともいえる

  • 上杉謙信/上杉鷹山 (上杉神社)
    • 戦国期に朝廷とのかかわりが深く、天皇にしっかりと筋を通していた謙信(謙信は、最初の上洛時に後奈良天皇から「瓜実剣」を下賜され、二度目の上洛時には、正親町天皇から「短剣」を下賜されたと言われる)と、名君とも言われ「為せば成る…」で有名な鷹山のイメージは重要であり、地域性も考えると、戊辰戦争の際、同じ奥羽越列藩同盟でも、盟主であった大藩・伊達(仙台藩)よりは、いち早く新政府に恭順した、かつての大藩・上杉(米沢藩)を「東北地方という地域性」と「民衆の拠り所」を踏まえ置いた可能性があると推察

  • 前田利家 (尾山神社)
    • 江戸期には大藩であった前田(加賀藩)の礎を築いた利家を、地域のバランスも考えると北陸地方で無視する事は出来なかったはずと推察

■明治維新の立役者

「別格官幣社」は、「明治政府が徳川の武家政権から天皇中心国家に生まれ変わるタイミングで新たに設置された神社の社格」と考えれば、この明治維新を現実の物にした「Key藩」を忘れてはいけないと思います。そしてその「Key藩」として名が挙がるのは、薩長土肥

  • 薩摩藩・島津斉彬 (照國神社)
  • 長州藩・毛利敬親 / 毛利元徳 (野田神社) 
  • 土佐藩・山内容堂 (山内神社)
  • 肥前藩(=佐賀藩)・鍋島直正 / 鍋島直大 (佐嘉神社) 

しかしこの時代の変革は、「薩長土肥だけ」でなされたことではないので、ここに公家側・幕府側・国民の視点も加えたとしますと以下の名前も挙がってくるはずです。

  • 公家:朝廷方のリーダー・三條実美(父:三條実萬) (梨木神社) 
  • 幕府:幕末の四賢侯の一人・松平春嶽 (福井神社)
  • 国民国の為に戦った幕末以来の国事殉難の英霊 (靖国神社)

尚、皆様ご承知の通り、靖国神社と言えば、この神社の創建に献策したと言われる大村益次郎の像があり、合祀されています(吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作と言った有名どころも合祀されている様ですが…)。そういった側面から考えると、靖国神社の神は「国の為に戦った幕末以来の国事殉難の英霊」ですが、「その代表は大村益次郎」と言って良いかもしれないと個人的には思っています…。

【別格官幣社に関する考察】

上記、「別格官幣社の一覧から感じる事」から「各神社と祭神の詳細」を見てまいりましたが、皆様はどの様な感想をお持ちになられましたでしょうか? 明治政府が、武家政権から天皇中心の国家を作るために、これまでの神道の枠組みを拡大し、歴史を活用しようとしている様に見えないでしょうか? すなわち、個人的な考察(妄想?)は、以下の感じです。

徳川慶喜により大政奉還がなされ、続いて王政復古の大号令が宣言された後、戊辰戦争の終結を経て、江戸期が終わり、天皇が京都から江戸に移った奠都(都を移す「遷都」ではなく、都を定める「奠都」)によって東京と名称が変更になった時代、すなわち「天皇を中心とした国家再構築の明治維新」のさなか、天皇中心思想の根源である神道を基盤に国家再構築を推進すべく(=政教一致)、日本の長い歴史の中で国(天皇)に貢献し、神格化され、(民意の統一含め)新しい国作りの一環として活用できるた人物(神・神社)だが、既定の神道の “くくり” では収まりきらないので、新たな神社の社格として登場した “くくり” が「別格官幣社」

皆様はどの様にお考えになりますでしょうか?

【最後に】

以上が、日本の神社における社格の一つであった「別格官幣社」につき、その概要と歴史的背景を抑えた上で考察(妄想?)を加えさせて頂きました内容になります

しかし、この「別格官幣社」の “くくり” を持つ、近世社格制度は、太平洋戦争の終結とともに、政教分離の観点から(GHQのもと)廃止されました地方の神社で、神社前の石柱の上の方が、コンクリートでおおわれている光景を見たことはありませんか? 恐らく『「村社」〇〇神社』と記載のあった石柱の「村社」の部分を、コンクリートで隠していると思われますが、これは、近世社格制度の廃止に伴い、GHQの干渉を恐れた為、近世社格制度に基づいた「村社」を隠したと言われている様です。現代の私達からすれば、「政教分離」は当然の考え方で、日本人は無宗教者なんていわれますが、個人的には、「私達日本人のベースには、神道も、そして神仏習合思想に基づいた仏教の信仰心も、無意識のうちに息づいている」と思って折ります。毎日信仰心を感じる必要はないと思いますが、たまには神社の前で脚を停め、「コンクリートで社格が隠された石柱」や「『別格官幣社』の様な社格を堂々と歌う石柱」を見つつ、手を合わせ日本の歴史に思いを馳せてみては如何かと思います。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

28社の別格官幣社のMap

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